山の中腹に、多くの捜索隊や地元の住民が集まっている。フリージャーナリストのリサ、失踪した音楽家の知人である美咲もその中にいた。
「すごい人の数ね」
この場所が人手で溢れるのは音楽祭などイベントが開かれる時くらいなものだ。それだけ人気のある音楽家の失踪は、この片田舎の町に大きな波紋を広げた。誰もが彼女の無事を願っている。
「エミリアが最後に目撃されたのは、この辺り。目撃者は一人だけで、その人も詳しいことは覚えていないみたい」
リサは手帳を開いて、失踪した女性に関する情報を整理しながら言った。
「美咲、当日のこと覚えてる?」
「あの日、エミリアは特に変わった様子はなかったと思う。いつもと同じようにリラックスしていて、笑顔も見せていた。ただ……」
美咲は思い出すように空を見上げた。
「ただ?」
リサは興味深そうに美咲の顔を覗き込んだ。
「ただ何かを考え込んでいる瞬間があったの。ほんの一瞬だけどね。何か思い詰めたような……。でも、その後すぐに、いつものエミリアに戻ったから、私の思いすごしかもしれないけど」
美咲は自信なさげに言った。
「その一瞬が、何か重大な手がかりになるかもよ。彼女が何を考えていたのか、それを突き止めることで、失踪の謎が明らかになるかもしれない」
いつもは静かで人の姿はまばらな場所だが、今日だけは特別だ。周囲はエミリアを探す住民たちの声が響き渡り、緊張感が漂っている。エミリア・ハートフィールドの失踪は、この町全体に深い影を落としつつも、反対に強い関心を呼び起こしていた。
「やっぱりおかしい。一人でこんなところに来るなんて」
美咲が周囲を見回し、そして言葉を続けた。
「気晴らしに散歩することはあるだろうけど、ハイキングなんてする子じゃない。散歩するとしても、どちらかというと町中だと思う」
話し終わった美咲がリサから視線を逸らし、リサの後方に目を向けた。一点を注視している。
「どうしたの?」
リサが不思議そうに美咲に問いかけた。
「あの人、何をしているのかと思って」
丘のきつい斜面を登って、木の裏側を覗き込むなど、見るからに怪しい動きをしている男がいる。山菜を取りに来たという服装でもない。
「あっ隠れた」
「私たちがじろじろと見たからじゃない?」
もし犯人なら日中に堂々と人目に付く場所に現れるはずがない。マスコミも来ており、テレビカメラだって回っているのだ。
テレビクルーの人たちは町の人たちが必死に捜索している様子を映している。
「あっ、こっち見た」
そう言って美咲が木の陰に隠れた。
捜索している住民の多くは森の音楽堂に集まっている。それに対し、男だけが別の動きをしている。一人でぶつぶつと呟きながら、辺りをうろつき回っていて、不気味だ。
「不気味に見えるかもしれないけど、あんなのどこにでもいるって」
他の人と比べると、確かに不自然な行動を取っている。しかしエミリアの失踪に絡んでいるかというと首を傾げざるを得ない。彼は関係ないのではないか。
「美咲、いつまで隠れてんの」
「しーっ」
美咲が指を唇に当てた。
「えっ? どうしたの」
「ひょっとしたら、あの人、私の知っている人かもしれない」
美咲が身を潜めたまま言った。
──まるでストーカーだな。 石場は自分の行動に笑みを浮かべた。 しかし、これは自分の無実を証明するためには仕方のないことだ。私は悪いことは何もしていない。 美咲によってかけられた疑惑を晴らすためには、こうして彼女の行動を見極めるしかないのだ。 石場は細心の注意を払いながら、美咲が何か決定的な証拠を残さないか、連日、観察を続けた。 特に大きな進展もないまま、淡々と日々が流れていく。 そんな日々が続く中、ある日、石場は美咲が友人らしき人物とカフェで会話をしているのを目撃した。美咲がいつも利用している店だ。 気付かれないように近づいてカフェの隅に座ると、石場は二人の会話に、そっと耳を傾けた。 どこの店のケーキが美味しいとか、安かったとか、誰々が何をした。何を言った。など、どうでも良い中身のない会話が続く。 石場は思わずため息をつき、椅子にもたれかかった。 くだらない雑談を垂れ流すだけの時間に一体、何の意味があるのか。よくもまあ飽きずに話していられるものだ。 まるで苦行のようだと感じていると、ついに美咲が石場について話し始めた。 美咲の声のトーンがわずかに低くなる。「ねえ、石場って、知ってる?」──やっと始まったか。これが聞きたかったんだ。 耳が自然と会話に向かい、視線は伏せたまま、意識だけが鋭く研ぎ澄まされる。 石場は身構えるように全身を強張らせた。無意識に背筋が伸び、膝の上で握り締めた手に力がこもる。 実は期待より不安の方が遥かに大きい。 今まで散々、あらぬ噂を立てられたこともあって、自分の話題に触れられる度に自然と身構えるようになった。良い話であった試しはない。まして今回は悪意のある内容であることが確定している。 その予感が石場の内面を揺らし、鼓動を高鳴らせた。「美咲、石場がどうしたの? 何か問題でも?」 友人が心配そうに美咲の顔をうかがった。 美咲が戸惑った表情を浮かべている。 短い沈黙が流れた後、やがて、美咲は本音を漏らすように小声で答えた。「実は……。同僚に石場のことを聞いたら、何か不気味な感じがしてきて……。あまり深入りしない方が良いんじゃないかと」──どういうことだ。同僚だと? どうして、こいつの同僚が私のことを知っているんだ。 思いがけない美咲の発言に思考が一瞬止まる。 同僚──その一語が石場の中に眠
「ふざけやがって!」 震える手を膝の上で押さえつけながら、石場は画面を睨みつけた。 白百合は私について“エミリアの失踪に関与している”と仄めかす記事を書き、まるで私が犯人であるかのような扱いをしている。その無責任な主張に激しい憤りがこみ上げてくる。 石場は拳を握り締め、そのまま拳を机に叩きつけようとした。しかし、すぐに思い直し、その寸前で手を止めた。 感情的になっても何も得はしない。それよりも白百合が何者で、何故あのようなことを書いたのかを知る方が先決だ。 石場はパソコンに向かい、白百合に関する情報を検索し始めた。ありとあらゆる可能性を考慮してキーワードを叩き込んでいく。 白百合と名乗る人物のSNSやブログには、数えきれないほどの写真と記事が並んでいた。その中には、彼女の私生活を垣間見せるような投稿も含まれている。 石場はひとつひとつの投稿を注意深く見ていくうちに、ふと、ある一文に目を奪われた。 そこには白百合が友人と一緒に写っている写真があり、コメント欄には「美咲、いつもありがとう!」と書かれてあった。 その投稿は友人からのものだ。「美咲……。これが白百合の本名か……」 石場は画面を見つめながら呟いた。 人気のあるブログらしく、白百合の投稿には多くのコメントが寄せられている。彼女はそれらに返信していたが、すべてに応じているわけではない。「素敵ですね」「行ってみたいです」といった一般的な反応には、絵文字だけで返すこともあれば、まったく反応がないこともある。しかし、その一方で、あるコメントには丁寧な言葉で返してあった。 その選別に明確な基準は見えない。気まぐれな性格なのか、少なくとも几帳面とは言い難い。──自分の名前が書かれているとも知らずに……馬鹿な奴だ。 石場は美咲の写真を眺め続けた。 この顔、どこかで見たことがある。 思い出そうと記憶を辿っていくが、中々、思い出すことができない。 最近、見たわけではなさそうだ。見たとしても何年も前の話だろう。 一体、どこで……。 石場は椅子に身を乗り出し、画面に顔を近づけた。指先が無意識にマウスを握りしめる。 喉元まで来ているのに、言葉が出てこない。 私の行動範囲は限られている。カフェに行くか、町を歩くか──せいぜいそれくらいなものだ。 エミリアがいた頃は、音楽を聴きに出かけるこ
「石場さんって大人しくしている時もあったけど、そういう時でも油断ができない人だったんですよ。人の行動を逐一チェックしていて、何かあったらすぐに上司に報告しに行く人だったから。『あいつがこんなことを言ってましたよ』とか言って……。本当に嫌な奴でした」 彩香さんの表情を見る限り、心の底から石場を嫌っていることが伝わってくる。「そういう陰湿的なところもあったね。あいつは仕事ができないくせに、上司がいる前では、ここぞとばかりに偉そうな態度で説教し始めたりするんだ。あれを見た人は説教されている人が本当にミスを犯した無能だと思うんじゃないかな。上司なんて職員の仕事ぶりを見ているようで見ていないから、石場のことを優秀だと思っていたかもしれないよ」 と松田が言った。「何人かの人が石場の問題行動を上司に話したみたいなんだけど、石場を擁護してばかりで話にならなかったって。それでバカバカしくなって退職していった人たちが何人もいる。私も何度、辞めようと思ったか……」 彩香の指先がカップの縁をなぞるように動き、口元には笑みともため息ともつかない歪みが浮かんでいる。 その沈黙が、何よりも彼女の記憶の苦さを物語っていた。「鬱になって会社に来れなくなった人も含めたら、辞めた人はかなりの数になるだろうね。取引先も嫌がって仕事もかなり減ったし」 松田が彩香の言葉に付け加えた。 石場のような人間が好き勝手にできるのは、その環境を作っている人たちがいるからだ。彩香さんや松田さんのように石場に反発する人たちばかりだったら、被害は最小限で済んだはずなのに……。 その後も、二人は石場の言動や職場の空気について、具体的な出来事を交えながら話してくれた。美咲は耳を傾けながら、自分が感じていた違和感の正体が次第に明らかになっていくのを感じた。 言葉にできなかったものが、少しずつ形になっていく。 やがて会話が一段落したところで、美咲は静かに口を開いた。「松田さん、彩香さん。今日は本当にありがとうございました。お二人から大切なお話を聞かせていただいて、いろいろと考えることができました」「美咲さん、気をつけて下さい。石場は何をするのか分からないので」 彩香は不安そうに美咲の顔を見つめた。「石場は感情的になりやすいし、予測不能な行動を取るからね。あいつを追うのは慎重にした方が良いと思うよ」
「ごめん、ちょっと遅れちゃった」と、彼女は申し訳なさそうに言いながら席に着き、「こんにちは。佐藤彩香です」と私に軽く会釈をした。 彼女は私が退職した後に入社した人だ。「こんにちは、彩香さん。私は美咲と言います。渡辺美咲です。今日は来てくださってありがとうございます」 そう言って、私は微笑んだ。 初めて会うのに、どこか懐かしいような気がする。彼女の雰囲気が、そう思わせるのかもしれない。「今日、佐藤さんを呼んだのは訳があるんだ。美咲さんがね、石場について訊きたいって言うから、僕も色々と話してたところだったんだけど、石場についてなら、佐藤さんの方が詳しいでしょ? だから来てもらったんだ」 松田はそう言ってから、美咲の方へ視線を向けた。「佐藤さんがね、石場が山にいたところを実際に見たんだって」 松田が真剣な表情で言った。「えっ、それって、いつ頃の話ですか」 美咲は驚いて問い返した。 彩香は少し戸惑いながらも話を始めた。「確か、最後にエミリアが目撃された日の夜だったと思います。今、付き合っている人と夜景を見るために、展望台に行った帰り道、ベンチで寝ている石場を見たんです」「本当ですか?」 こんなに早く、目撃者を見つけることができるなんて……。だけど驚きもするが、あの石場なら、こんなものだろうとも思う。あの男が計画的に行動を取ることができるはずがない。 しかし、複雑な心境だ。犯人が分かったかもしれないという期待の反面、エミリアが被害に遭ったかもしれないといった不安な心が押し寄せてくる。「暗くて良く見えなかったけど、あれは絶対、石場です。お酒を飲んでいたのではないかと思います。近くに缶ビールが転がっていたので」 どうして石場がそんなところに……。「そこで寝ていただけですか? 近くにエミリアはいました?」「エミリアって、あのヴァイオリン弾きの人ですよね。その人なら、いませんでしたよ。石場が一人で寝ていただけです」 美咲の頭の中で糸が少しずつ繋がっていく。エミリアが失踪した日の夜に、その場にいたなんて、もう石場が犯人と決まったようなものだ。「何らかの犯行に及んだ後なのかもしれないですね」 彩香が呟くように言った。 考えたくはない。だけど、もうそれしか……。エミリアを襲った後、満足して眠ったのかもしれない。「うん。あいつならやりかねない
美咲は元同僚から、あの男について話を聞くため、カフェに向かった。 カフェの一角で美咲を待っていたのは松田だ。彼は石場と同じ部署で働いていたことがある。彼なら何か知っているのではないかと思い、連絡を取った。 松田は美咲を見るなり、穏やかな笑みを浮かべた。「久しぶりだね、美咲さん。元気そうで何より」「お久しぶりです、松田さん。あれっ、もう一人の方は?」「少し遅れるってさ。で、今日はどうしたの、突然、石場のことを訊きたいとか言ってさ。石場って、あの石場でしょ。どうして、あんな奴のことを知りたいわけ?」 あの男は石場というのか。「実は、その人がエミリアの失踪に関与しているのではないかと疑っていて……。知らべてみると、かなり怪しいんですよね」 美咲が、これまでの経緯を簡潔に説明すると、松田は深く頷いた。「疑いたくなる気持ちは良く分かるよ。あいつは確かに変だったからね。営業先にも散々、迷惑をかけてたし……。突然、その場から居なくなって、全く別の場所で見つかるとかさ。普通、有り得る? 有り得ないでしょ? しかも、そんな状況でも、あいつは平然としていたからね。持ち場を離れて遊んでいてもバレないと思ったんだろうけどさ。舐めてるよね。あいつは基本的に自分のことしか考えていない。他人の功績を自分のものにすることもよくあったし、嘘ばかりつくし。だから成長しないんだよ。新人でも知っている仕事内容なのに、あいつは知らなかった。実際にやってもできなかったからね。とにかく卑怯。どうにもならないよ」 松田の石場への怒りがひしひしと伝わってくる。「そんな人が同じ部署に居たら迷惑ですね。退職者が相次ぐのも仕方がないと思う」 石場が原因で何人もの人が退職したと聞いている。「仕事ができないのは別に構わないんだよ。みんなが退職したのはそれが理由じゃない。あいつはすぐに感情的になって、他人を攻撃するところがあった。他人に対して高圧的に振る舞って偉そうにしていたからね。特に女性に対しては本当に酷い態度を取ってた。上司が居る時と居ない時とでは態度が全然違っていた」 立場の弱い人に対して高圧的に振る舞うか……。自分に自信のない証拠だと思う。本当に実力があるのなら堂々としていられる。「それは確かに一緒に働くのは難しいですね」「あいつは自分の過ちを認めることは決してなかった。常に無反省で
「エミリアはどこか静かな場所で休息を取っているのかもしれないね。あのように見えても、エミリアには繊細なところがあったから。一人になりたい時だってあるだろうし……」 たぶんエミリアが華やかな舞台を捨てて田舎に来たのは、周囲からの期待に押しつぶされそうになったからだ。だから休息している可能性はある。アレックスに何も告げずに出て行った理由までは分からないけど……。「もっと早く、私がエミリアに寄り添っていたら、こんなことには……。あの頃は仕事に追われていて、心に余裕がなかった。自分のことしか見ていなかったんだ。それがずっと、心に引っかかってる。後悔してるよ」 アレックスは視線を遠くに投げたまま、言葉を探すように口を動かした。肩がわずかに落ち、背中に影が差している。 エミリアがアレックスに何も言わなかったのは、きっと、アレックスに心配させたくなかったからだ。エミリアには、そういった側面があった。「アレックス。誰にだって自分のことで手一杯になることはあるよ。アレックスが悪いわけじゃない。今からでも遅くはないと思う。エミリアを見つけて、エミリアの思いを共有すれば良いんだから」 そう言って、美咲はそっとアレックスの手に触れた。「そうだね。まずはエミリアを見つける方が先だね。落ち込んではいられない」 アレックスは希望を感じたのか、少しだけ笑みを浮かべた。 アレックスの表情がほのかに明るさを帯びたことに、美咲は胸を撫で下ろした。しかし、その安堵の裏で美咲の心は複雑な思いに揺れていた。 エミリアが無事であるという希望と、もし何か悪いことが起きていたらという不安が交錯する。 本当にエミリアは無事なのだろうか。どこかで助けを待っているのではないか。 そんな思いが頭をよぎる中、アレックスの手を握る美咲の手には、言葉にできない温もりとざわめきが混じり合っていた。 美咲はしばらくアレックスの瞳を見つめた後、そっと微笑みながら言った。「アレックス、もし何か思い出したり、話したくなったら、いつでも連絡してね」「ありがとう、美咲。君の言葉が心の支えになるよ」 アレックスは感謝の意を込めて微笑みで返した。しかし、その笑みはどこかぎこちないものだった。「じゃあ、私、そろそろ行くね。また何かあったら連絡するから。アレックスも思い出したことがあったら連絡して」「うん、そうす